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裏切りの契り。 〜涙に濡れた愛の果て〜
裏切りの契り。 〜涙に濡れた愛の果て〜
Author: 伊桜らな

第1話

Author: 伊桜らな
last update Huling Na-update: 2025-09-22 14:24:05

白い壁に囲まれた診察室は、消毒液の匂いが鼻をつき、どこか無機質で冷たい空気を漂わせていた。蛍光灯の光が眩しく、壁に映る自分の影がやけに薄く見えた。机の向こうで、医師がカルテをめくる音がカサカサと響く。眼鏡の奥の目が細まり、低く落ち着いた声が告げた。

「おめでとうございます。橘さん、妊娠されていますよ」

その一言が、まるで重い石を水面に投じたように、私の心に波紋を広げた。世界の輪郭がぐにゃりと歪み、時間が一瞬止まった気がした。耳鳴りがして、頭の中が白く霞む。

――私の中に、命が宿っている。

「……え」

思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。反射的に指先でお腹をそっと押さえてみる。だが、そこにはまだ何の変化も感じられない。ただ、心臓の鼓動がやけに速くなり、全身を血が駆け巡る感覚だけがリアルだった。胸の奥で、喜びと不安がせめぎ合う。

「週数としては、まだ初期段階です。順調に育っていますが、これから気をつけることは多いですよ」

医師は淡々と説明を続けた。栄養バランス、適度な運動、アルコールやカフェインの制限、体を冷やさないための注意……。言葉の一つ一つは頭に入ってくるのに、心はどこか別の場所を漂っていた。まるで現実から一歩離れた、夢のような空間にいるかのようだった。

――私が、母親になる?

白い部屋の中で、ふと母の面影が浮かんだ。七年前、交通事故で突然この世を去った母。いつも穏やかに微笑み、私の髪を撫でてくれたあの温かい手。事故の日の朝、最後に交わした何気ない会話――「美咲、今日も元気でね」。その声が、今も胸の奥で鮮やかに響く。母の笑顔を思い出すたび、涙腺が緩むのを抑えきれなかった。

診察室を出ると、病院の廊下は人の足音と話し声でざわめいていた。看護師の呼び出しアナウンス、患者の家族のひそひそ話、車椅子の軋む音。それらが雑踏のように混ざり合い、耳に遠く響く。私はただ、自分の靴音だけを頼りに歩いていた。頭の中は「命」という言葉で埋め尽くされ、他の音はまるで海の底から聞こえるようにくぐもっていた。

***

病院の玄関を出ると、12月の冷たい風が頬を刺した。吐いた息が白く舞い、夜空に溶けていく。街はクリスマス前の華やぎに包まれ、ガラス張りのビルには色とりどりのイルミネーションが映り込んでいた。通り過ぎるカップルの笑い声や、子どもが母親にねだる声が耳に届くたび、胸の奥がちくりと痛んだ。

私の人生は、いつもどこかで欠けているものがあった。両親を失い、孤独と義務だけを抱えて生きてきた。神宮寺家に引き取られ、哲也さんとの政略結婚。そこに愛はなく、ただ形式的な絆だけが私を縛っていた。心から「愛されている」と感じたことなんて、一度もない。

でも、今日からは違う。お腹に宿った小さな命は、どんなに弱くても、私と共にある。この子は、私が守るべき存在だ。指先でお腹に触れると、かすかな温もりが感じられる気がした。不安と希望が交錯する中、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

画面に表示された名前を見て、息が止まった。

――兄さん。

「もしもし!」

慌てて応答すると、懐かしい低い声が耳に響いた。

『美咲、久しぶりだな』

涙がこみ上げた。三年間、アメリカで勉学に励んでいた兄。渡米前に「すぐに戻るよ」と笑って手を振った彼の姿が、昨日のことのように蘇る。だが、月日は無情に流れ、連絡は次第に途絶えていた。兄の声は、まるで遠い記憶を呼び起こす鍵のようだった。

「兄さん……どうしたの?」

『日本に帰ることにした。もう向こうでの研究は一段落ついた。これからは、ずっと日本にいるつもりだ』

「えっ……ほんとに?」

信じられなくて、声が裏返った。胸の奥が一気に温かくなり、凍えていた心が解けていくようだった。兄が帰ってくる――その事実だけで、孤独が少しずつ薄れていく。

『お前を一人にしておけないからな。……もう、無理をするなよ、美咲』

その言葉に、涙腺が決壊した。兄はいつもそうだった。私が笑顔で振る舞っていても、内心でどれだけ自分を押し殺しているかを見抜いていた。子どもの頃、母の死後、泣きじゃくる私を黙って抱きしめてくれたあの温もりが、電話越しの声に重なる。

「兄さん……あのね、私、今日……」

言葉が詰まった。胸の奥が震え、呼吸が浅くなる。でも、どうしても伝えたかった。

「今日、赤ちゃんができたって分かったの」

沈黙。遠い異国からの電話越しに、兄が考え込む気配が伝わってくる。心臓が早鐘を打ち、冷たい風が頬を刺す。否定されたらどうしよう。責められたらどうしよう。そんな不安が頭をよぎる。

けれど、やがて穏やかな声が返ってきた。

『……そうか。おめでとう、美咲』

短い言葉だったが、そこには深い温もりが込められていた。涙が頬を伝い、冷えた指先で拭う。孤独じゃない。私の幸せを祝ってくれる人がいる――それだけで、胸の奥に小さな光が灯った。

「ありがとう……兄さん」

『安心しろ。もうすぐ会えるからな』

通話が切れた後、私は夜空を仰いだ。街の明かりが瞬き、遠くに一つだけ輝く星が見えた。お腹に手を当て、そっと呟く。

――今度は、私が守る。必ず。

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